月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

【今週のお題】「鬼」架空の存在を幼少期に怖がらせる目的で使ってはいけない

今週のお題「鬼」

鬼と聞くと最近流行りの鬼滅の刃が思い浮かぶ

自分もジャンプ本誌とアニメを見たけど、ストーリーは分かりやすく、複雑な設定が苦手な自分でも楽しめた。まだ映画は見に行けていないけどいつか見たいと思っている。

 

さて、タイトルの「架空の存在を幼少期に怖がらせる目的で使ってはいけない」について話していこうと思う

来年小学二年になる従弟がいるのだが、まだ小学校に入る前ぐらいにその子の母が、静かにさせるために「言うこと聞かない子のところには鬼が来る」と言っていたのを思い出した。

それを聞いた従弟は怖がり、静かになった。大まかに結果だけ見ると、「静かにしなさいと注意した母の言うことを聞いて静かになった」になるが、従弟に残るものは、ただの恐怖だ。この時はまだ恐怖だけだが、何年も経ってから現れるものがある。

従弟に現れるかはまだ分からないが、私には実際に現れたものがある。

騙されたという感覚

 

本当は鬼というものが存在しないと知ったらどう思うだろうか

正当な理由を説明されず、鬼という架空の存在を使って恐怖を与えられ黙らされたという記憶は、幼いとはいえ長くわだかまりとして残ると思う。

その結果、私みたいに何かを信じるということが苦手になってしまうのではないかと心配している。

幼いから言っても意味が分からないだろうと思うのではなく、何を言ったかは覚えているから、架空の存在を利用して躾けることはやめてほしいと思う。

 

 

 

 

 

反抗期というレッテル貼りの持つ暴力性

両親曰く、私は現在反抗期らしい

辞書を引くと、”子供が幼少期と青年初期とに親や周囲の人に反抗的になる時期”(新明解国語辞典 第七版)と書いてある。

私はこれに当てはまらない。反抗期だと言われたことに反抗しているから反抗期になると言われればそうかもしれないが、反抗していないのに反抗期と言われたら反抗せざるを得ない。両親が反抗期としておいた方が都合が良いと考えて反抗するよう仕組んだ罠かもしれない。(そんなことはないと思うけど)

私は、懐疑的になっているだけで反抗的ではない。親に言われたからという理由で反抗することなどなく、親という要素を取り除き、残された言葉の意味やその正当性を考えている。その結果として疑問や反論が出てきたからそれを伝えているだけで反抗したいからではなく、考えたから言葉がでた。この順番を逆にしないでもらいたい

ある意見に反抗期とレッテルを貼ることでその意見は、意見の中身に新たに反抗期という情報が付いて回るようになる。こうすることで、「反抗期だから~」と聞くに値しない意見かのように扱われてしまう。実際にそうされた経験がある。

大人からしたら聞くに値しない言葉かもしれない。だが、聞くに値しないと感じたのはどうしてか自問自答してほしい。少し変わった意見だとしても先に年齢などの時期から反抗期というフィルタを通さなければ反抗期に見えないはずだ。純粋に意見の中身を取り出す作業をすべきで、反抗期だと決めつけることを先にやったならそれを意識的に取り外さなければいけない。

これができない人は、誰が言ったかで中身の善し悪しを決める。

権威のある人が言ったから、有名人が言ったから善いものなのか。そうではないことを多くの人が直感的に確信している。

 

本当に反抗期なのか見つめなおてほしい。ただ一蹴するだけの言葉になっていないか、

もしそうならそれは思考を奪う言葉

何を言っても反抗期特有のものだと一蹴されてしまったら考える楽しさがなくなる

自分の親はめんどくさがってあまり聞いてくれないからそれをインターネット空間に放つ笑

 

こうやって文章書くのはいい気晴らしになるね

自分の考えもまとまってくるし、新たな発見もある

この感覚を大事にしていきたい

新語を生み出すJKに思うこと

女子高校生、JKというものは数々の新しい言葉を生み出してきた。

なかでもピエんや卍は記憶に新しいが、それらの言葉は容易に理解することが出来ず、彼女等の世界でしか通じない独特の言語である。

しかし、世間に知られるようになり、何度もその言葉を見ていくうちに意味を感じ取ることができるようになると彼女等の感性の豊かさや、それを言語化したいという強い意志が分かる。

例に挙げたピエんや卍という言葉は、別の言葉に置き換えることの出来ない意味を持ち、彼女等が感じた曖昧な感情を見事に新しい言葉を作る事で言語化している。だが、それらの言葉は流行性のものであり、世間一般の人に浸透してきた頃には流行の終わりに差し掛かっている。そして、JK達に「まだ使っているの?遅れてる」と言われるところまでが一つの流れ。
飽きが来るのが早く、流行が短いことが惜しい

素晴らしいものを生み出しているのだからもう少し一つ一つ大切にしてほしい。

 

JKとそれ以外の人たちではときの流れの早さが違うのではないかとさえ感じる。まだ若いんだしもう少しゆっくりしなよ。(19歳の筆者より)

 

 

感想を言うことの難しさ

私は感想を口に出すことが苦手だ

映画や景色、アニメなどを見た時に誰かと感想を言い合うということを多くの人が経験していると思う

こういう場面で感想を言えない

感想を言い合うことは自分の感覚を他人と共有するということだと思う。

自分の感覚を他人とそのまま共有することはできないから自分の感じたことを他人に伝えるためには言語を通さなければならない。

しかし、自分が感じたものを表す適当な言葉が見つからない。語彙力がないというわけではなく、自分の意識表象に現れたものを表すに相応しい言葉が何か分からない。

例えば、「嬉しい」という言葉を聞いたときに、嬉しいが何を意味するのか、どのような状態を指しているのかを理解する過程で自分が嬉しいと感じたときの感覚を呼び起こしているが、相手が嬉しいと表現した感覚は、呼び起こした自分の嬉しいと同じなのだろうか。

このような疑問が生じてしまった結果、自分の感覚を言葉に収めて相手に伝えることが億劫になってしまった。

さらに言えば、自分が感じている感覚は、ある一言で収まる範囲のものではない。

どの言葉にも属さない曖昧な感覚をそれに近い感覚を表現する言葉を当てはめてしまうことで、その感覚を無理やり収めてしまっているから言語は思考を制限すると感じた。言語に縛られず、もっと自由に感情表現をしたい。

 

”自分がある”とはどういうことか

"自分がある"と言われる人は、他人に流されない、芯のある人、我が道を行く人のことだとされているけど、自らの意思で進んだ方向が偶然他人と同じだったという人は"自分がある"とは言われない

もちろん右往左往している人は自分があると思われなくても仕方がないと思う。

少し前に家族と雑談していて”自分がある”という言葉の使い方が気になった。姉の高校時代の友人がバイク好きであまり女っぽくないらしい。そのことを良い意味で自分があると表現していた

そもそも、”自分がある”が褒め言葉として使われていることが不思議。

芯がある人、他人に流されない人は偉いの?

自分勝手な人も自分があるといえるし、自分の意思が多数と同じ人も自分があると言えるはず

それなのに“自分がある”という言葉にそういう人たちは含まれない

我が道を行く人と自分勝手な人の本質的な違いはないと思っている。

起きている事象は同じだが、見る人によって見え方が異なるというだけ

どのように違うかといえば、自分に害があるか、迷惑かどうかだと思う

害がない、他人に迷惑をかけていなければ自分がある

害がある、迷惑をかけていたら自分勝手

自分がその人に振り回されているかも関係しているのかもしれない

自分があるという言葉は褒め言葉になるのか、褒めているのかよくわからない

その人の言動は共感できないけど、自分に害はないから適当に褒めているような雰囲気を出しているだけなんじゃないかと思う

こういう言葉に隠された欺瞞を感じてしまうと気になってしまって話に集中できなくなるから嫌なんだよね

何か良い解釈が見つかると良いんだけど

 

 

サンタクロースは実在する

  サンタクロースは本当にいるのかということは多くの人が考えてきたことだろう。サンタクロースからプレゼントを貰い、子供たちは喜びを感じる。その子供たちが成長し、親になった時にサンタクロースとなって同じように子供たちに喜びを与えることを繰り返してきた。

サンタクロースと呼ばれる人物をテレビなどで目にすることはあっても、その人物が実際に自分にプレゼントを届けに来るところを見ることはない。

そこで、本当にサンタクロースが自分にプレゼントを届けているのか、そもそもサンタクロースの正体はなんだろうかという疑問が生じる。本稿では、この疑問に答えると同時に、サンタクロースの正体として親だと告げられた子供が騙されたと感じることなく受け入れられるようにするための一つの解釈を提示する。

  サンタクロースがトナカイが引くソリに乗って世界中の家を回ることはできないということは、現在の科学技術を見れば納得のいく答えが見つかるが、サンタクロースの正体は大人が教えてくれることはなく、疑問を抱えるか疑わずに信じるどちらかであろう。

筆者は、中学1年生の頃まで両親ではなくサンタクロースという超越者が家々を回ってプレゼントを届けていると信じていた。

自分の目で捉えることができないからといってサンタクロースの存在を否定する根拠にはならないと考えていたのだが、両親にサンタクロースの正体は私たちであると告げられたときに酷く悲しみ、さらには両親に騙されていたと思ってしまった。そこからサンタクロースは存在しないと考えるようになり、毎年クリスマスの時期になるといつまで子供たちを騙し続けるのかと憤りさえ感じていた。

事実を告げられた子供が、筆者のように騙されたと感じないようにするために、ある一つの解釈を見つけることができた。

サンタクロースを人や一人の超越者とする考えを捨て、サンタクロースというものを見つめ直すことで以下に示す解釈を新たに取り出すことが可能となった。

前述したように、実際にサンタクロースなる人物が家を回っていないからといってサンタクロースが存在しないことを意味するものではない。しかし、これだけでは存在することの根拠としては不十分である。

そこで、サンタクロースは、ある特定の人物を指しているのではなく、子供たちを喜ばせたいと想う親や人々の感情の総体のことであるとすれば、存在しないという意見に反論しながら存在する根拠を示すことができると考えた。

子供を想い、喜ばせたいといった感情にキャラクターとして赤い服の髭のおじいさんの像が割り当てられているだけで、その人がサンタクロースというわけではない。

 

サンタクロースはこの人だと見せられていた我々は、サンタクロースは特定の人物を指すものだと信じ込んでしまった。

その結果、サンタクロースが両親だったと告げられたことで騙されたと感じ、様々なものを信じることができなくなってしまった筆者のような人物を生んでしまった。

今後、筆者のような思いをする子供を減らすために、サンタクロースは親だったと告げるのではなく、子供たちを喜ばせたいと想う親や人々の感情のことだと教えるようにすることで、騙されたと感じなることを願っている。

乾電池の大きさ 単○形とDCA···

乾電池は大きさによって単1形電池や単3形電池と呼ばれていますよね

日本で一般的に使われている乾電池の大きさは、大きい順に単1〜4形まであります。単5形や単6形電池もありますが、家庭で使うことはほとんどありません。単○電池と日本では呼んでいますが、外国ではどうなっているのでしょうか

本記事では、電池の大きさの呼び方が外国ではどのようになっているのかを実際にあった出来事から書いていきます。

ナノクーロンメータを使って表面電荷を測定しようとした時に日本語版と英語版の取扱説明書を見比べていたところ、気になることがありました。
日本語版の使用電池の欄に "単4電池2本" と書いてあったのでそれに対応する部分を英語版で探していましたが、それらしき数字や大きさを表す言葉が見つからず………
この部分に書いてあるはずという場所には "AAA" と書いてあるだけでなんのことやら…

 

 

アメリカではAの数かアルファベット順や組み合わせによって大きさを表している??

もしかして、、と思い調べてみたところ、以下の表のようになっていました。

f:id:Wilhelog:20201224113014p:plain

ここで、なんでDCときたのにその次がAAなんだ!?と思いませんか?

さらに調べてみると、この規格が作られた当初はDCBAとなっていたようですが、その後、BとAの大きさが廃止され、今の単三形電池と同じ大きさのAAと、単四形と同じ大きさのAAAが追加されたからD,C,AA,AAAと不自然な並びになっているとのこと

英語の説明書を見る時に、工業系の英単語の意味だけではなく、このような特殊な通称を知っておくと読みやすくなりますね

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