水
水に溺れると苦しい
外から見ると美しい
踠き苦しんでいる様子から発せられ、感じることのできる形になったものは美しい
死を想像すること
死を想像することをやめられない
自分の死ではなく親しい人の死
まだ生きている
会話をしている最中にその人の死を想像してしまう
本当に死ぬよりも怖い
実際に死んだら怖がることはない
想像してしまうことが一番の恐怖であり想像から逃げることはできない
世界は想像から成る
ワクチン接種特典に感じた違和感の正体
コロナウイルスのワクチン接種を完了した人が受けられる割引や、商品券などの特典を実施している飲食店,観光業者が増えてきている。大手チェーン店や自治体が補助金を出すなどのニュースをテレビや新聞などで目にするようになったが、何か違和感を感じていた。
後に詳しく書いていくつもりなので結論から書くと、ワクチン接種にかかる何らかの特典は明確な差別だと思っている。
順を追って考えながらこの結論に至ったのではなく、違和感を感じて数日後に急に表れてきたのだ。
特別このことを考えて過ごしていたわけではなく、普段と変わらず生活していく中で意識とは別の領域で思惟していたのだろう。
理由が分からないまま結論が出てきたため結論から遡って意識とは別の領域でどのような材料から組み上げられた結論なのか考察していきたい。
まず、私には差別反対を声高に叫ぶ人は、偽善や欺瞞そういった表面的な部分で中身を偽る類のものに見えている。
同じように見ている人は少なからずいることだろう。
私は、差別に反対か賛成どちらの姿勢も示したくないし、他人に知られたくない。
そもそも差別という形の現象が社会的に否定されながらも肯定されていることは事実である。
しかし、差別と一言でまとめて意思表示をすることは、本来不可能であるはずだが、ある特定の事象に対してのみ差別という言葉があてがわれ、人々は差別反対と口にする。
現象として差別という形を取っているものでも差別とは呼ばれず社会的に肯定されている事例がまさに冒頭で述べたワクチン接種特典である。
ワクチン接種特典は、ワクチン接種率を上げ、新型コロナウイルス感染症の影響を受けた経済を回復させることを目的とし、接種完了を証明した人に対して料金の割引、金券、ドリンク1杯無料など事業者や各自治体ごと様々な特典を受けられるというものだ。
しかし、持病やアレルギーなどの体質でワクチンを受けることができない人はこういった特典を受けることができない。
ワクチン接種をしない人には上記の理由以外でワクチン接種を希望しない人もいるが、思想を身体の一部とみなすかということも論じなくてはいけなくなるのでここでの言及は避けたい。
ワクチン接種することができない人への差別は、例えば実際に割引を受けた,金券を貰ったかどうかではなく、何らかの特典を受ける権利を有するか否か、この時点で成立している。
人種、出自、性別といった差別の要因になっていたものと元から生まれ持った体質には何も違いはないように思うのだが、ワクチン接種特典は差別として広く認識されない。
新型コロナウイルス感染症拡大によって多くの業界が影響を受けていることから感染拡大阻止のためにワクチン接種を推進するべくこのような施策がなされているという理由は合理的に感じられるが、このような合理的理由があれば差別は肯定されると受け取ってもよいのだろうか。
実際に、現状としてはこの状態を良しとする風潮だからこそ特典を用意する事業者や自治体がいるのだからそう受けとってよいのだろう。
だが、厚生労働省や複数の地方自治体のホームページには、ワクチン接種を受けていない人を差別してはならないという主旨の文言がある。
ワクチン接種に限らず、あらゆる差別の解消に向けて国を挙げて様々な方策が立てられており、様々な場面で多くの人が差別反対を表明しているなかでこのようなワクチン接種特典という新たな差別が発生している。
差別反対と言いながら官民両方でワクチン接種特典を推進しているが、差別だと気がつかなかったのか、差別してでもそうすべきだと判断したのかは分からない。
差別の風潮による基準が普遍的なものではないことは承知しているのだが、このような矛盾に疑念を抱かずにはいられない。
ここであるニュースを紹介する。
自身を「人種差別主義者」と認めるタクシー運転手が黒人男性の乗車を断られる映像が公開され、非難が殺到しているというニュース
このニュースの運転手は、差別反対と主張しながら差別していることを直視できなくなった人達よりも気持ち悪さを感じない。
最初に述べたように私は差別に賛成か反対か分からないし、そもそも賛成反対で語るものなのかも分からないからこのニュースの出来事にも答えを出せずにいる。
ただ、偽善や欺瞞に満ちている風潮とは比べ物にならない程の清々しさを感じる。
差別反対を表明し、自分は差別に反対する善い人だと悦に浸る人達をこれまでも,これからも多数目にするだろうが、その度に人間の汚い感情が入ってくると思うと憂鬱で仕方ない。
今、私自身が他人に対して同じ存在になっている可能性は否定できないことであるのもまた事実である。
ここまで一通りワクチン接種特典を差別として批判してきたが、ここで一つの解決案を提示したい。
ワクチン接種することが出来ない人にもワクチン接種完了者と同様にワクチン接種を受けられないことを証明する証明書を発行するというものだ。
ワクチン接種不可能という証明書を提示することで接種者と同様のサービスを受けられるようにすればワクチン接種特典による利点を損なわず体質でワクチン接種することができない人への差別は形として消えていくと考えている。
国や自治体は、ワクチン接種の有無によって差別が発生すると想定していたならば差別をするなと呼びかける前にその解決策まで用意しておくべきだったと思う。
差別を恐れるあまり抑制してばかりいては経済の回復はないのだから両立し得る方法を考えていかないといけない。
ここで示したのはあくまでも書いている途中に思いついた一つの安易な案でしかないが、これからも差別反対という姿勢を崩さないのならば何か差別解消に向けた策を講じるべきだろう。
おまけの写真
これは書いている途中に思ったけど、最初に結論として差別だと思ったと書いたけど、大した結論じゃないね
わかる人は普通に疑いもなく差別だと認識するよね
差別反対と声高に主張するなら差別しながら生きている現状を直視すべきだと思った
それをせずに自分は差別に反対しているなんて言ってしまうのは偽善だと思う
自分が善であると信じて疑わない
自分もその状態になっていないかが怖い
ワクチンは自分も打てるかどうか分からないんだよね。アレルギーはないはずだけど、ずっと体調悪いから接種券届いてもいつ打てるか分からない
元気があっていつでもワクチン打てるという状態なら、やったーワクチン打ったから割引される〜と喜ぶだけで打つことが不可能な人に目を向けなかったかもしれない。
そう思うと打てるかわからない状態でよかったのかもしれない
【Python】Pillowを使って複数の写真にコピーライトを一括で追加する方法
コピーライトの表記がなくても著作権は認められますが、盗用を防ぐべくTwitterやブログに投稿する写真にはコピーライトをいれることにしました
そこで、画像編集ソフトを使ってもいいのですが、練習もかねてPythonで画像に文字を入れるものを作成したので公開します
Pythonの環境構築やPillowのインストール方法はここでは触れません
全文
コードの順番通り概要を説明すると
1.指定したフォルダ内のJPEGファイルを読み取る
2.新規フォルダを作成する
3.読み取ったJPEGファイルに任意の文字を上書きする
4.新規フォルダに保存する
3〜4を繰り返すことで指定したフォルダ内全ての写真にコピーライトを付けていきます
フォントは予め任意のフォルダに用意しておきます
fill=‘#FFF’で文字の色を指定します。#FFFは白です
4の保存では、JPEG画像なので画質の変更ができ、100なら元画像と同じ、80なら元画像から80%の画質になります
文字の大きさはpx単位で指定するので元画像のpxによって変更する必要があるので注意が必要です
サンプル
この画像(1840×1232(px))に文字の大きさを200pxに指定して文字をいれます
実行結果がこちらです
参考
Python Pillow - 画像に重ねて文字を描く - PythonとRPAで遊ぶ
【加工例11選】Pythonで画像を一括処理できるPillowの使い方 – Valmore
ゼロからはじめるPython(39) Pythonで100枚の画像にコピーライトを書き込もう | TECH+
新顔ミッキーマウスを愛せなかった
ミッキーマウスの顔が2019年3月26日から新しく変わって2年以上経つけど、まだ受け入れられなくて前の顔のときと同じように愛することができない。
本当は前と同じように愛し続けたい
愛したいのに愛せないという苦しみから抜け出したいとずっと思っているのだけど、きっかけもなくそのまま
そんな時に今日(6/6)、「愛せる」そう確信する瞬間が訪れたがその時間は永遠ではなかった
今日は、ディズニーオンクラシックに行ってきた
演奏した曲の一つに「Fantasmic!(ファンタズミック!)」というショーの曲があり、スクリーンには実際に東京ディズニーシーで撮影した映像が流れていた
その映像には新しい顔のミッキーマウスが映っていて、最初は、新しい顔か嫌だなぁとか、やっぱ新しい顔はまだ受け入れられないなと思いながら聴いていたんだけど、マレドラと戦い終わったあとの最後の come fly〜のところで感情が込み上げてきてしまった
その時の感覚が前の顔のミッキーマウスのときと同じだったから、「やっと顔関係なく受け入れることができた。ミッキーマウスは顔が変わってもミッキーマウスなんだ」と思うことができ、今まで新しい顔のミッキーマウスのことを愛せずにいたからずっとミッキーマウスに対して申し訳ない気持ちでいっぱいで、すごい謝りたかった想いがやっと消えると思った
ずっとミッキーマウスに謝りたかったんだよ
すごい好きだったのに顔変わった途端に、誰これ、何この人いきなり来て、ぐらいの感じで思っちゃって
でも心のどこかではミッキーマウスはミッキーマウスにかわりはないとも思っていて、ぬいぐるみとか、アニメのミッキーマウスは変わらず好きだったし、パークのミッキーマウスも同じミッキーマウスだと思いたかったけど、何度見ても同じ存在とは思えなくて辛かった
そもそもなんでミッキーマウス好きになったのか覚えていない
見ているうちに、あれミッキーマウスさんなんか素敵❤️ってなっていた
15か16歳の時だったと思う
コンサート終わって外に出てきて、やっと前の顔と同じように愛せると思って、新しい顔のミッキーマウスの写真を見たらコンサートの最中とは違う感情が出てきてしまった
まだダメだった
新しい顔のミッキーマウスをいつになったら受け入れられるようになるんだろう
あーあ、やっと克服できたと思ったのになぁ
悲しいよ
全てのミッキーマウスを愛したいよ
ミッキーマウス可愛い
ミッキーマウス撮るときは興奮しすぎて上手く撮れない
個性
無理に個性を出そうとしたくなくて何の変哲もない写真を撮っている
そのうち勝手に表れてくるものだと思うから自分の中で普通のことをしていけばいい
そのうち多数とズレてきたと多数が判断したら自然と言われるようになる
個性があると言われることが良い事なのかは分からない
最近無理をして個性があるように見せたがる人が多い気がする
そもそも個性は出そうとして出すものではないし、個性的だと思われたいと思っている時点で個性はない
個性がない人はいないが、個性という名の他を纏っているから個性が出てくる隙がない
ある程度は写真の基礎を見るのはいいんだけど、あまり写真家の写真を見るのは良くないなと思った
目指したところで自分の個性ではない
まあたぶん目指したとしても、個性がある人なら目指しているつもりでも個性が出てくるんだと思う
やっぱ出そうと思っても出ないし、自分では気がつけないものなんじゃないかと思う
一般的なものを撮っていると思い込んでいるときに個性が出るのかもしれない