月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

私の死生観の起源と今後

自律神経失調症で手足に力が入らなくて足がピリピリする(貧血なのかな?)こういう状態のときに生を実感する

生というものは、生まれてからずっと通常だったものがそうでなくなってきて初めて実感するものなんだと思う。

普通の感覚ではないことを感じてやっと分かる

去年同居している祖父(父方の)が死に、19歳にして初めて身近な人の死を経験した

正確に言うと幼稚園の時に曽祖父が死んでいるが、まだ年齢的に何も分かっていなかったので悲しみも泣きもしなかった。

 いや、何も分かっていなかったのではなく、今と同じ状態だったのだと思う

 他人の宗教観、死生観をまだ知らない真に純粋なときに経験した死と、19歳で経験した死の間には違和感があった

 その違和感は、幼稚園のときの"何も感じなかった"という感じと、暮らしていく中で宗教(日本なので主に仏教)やそこから生まれる死生観を内に取り込み、他人の思考が介入したことから発生する差からくるものだ

 死とは何かと考えた時に追い求めていたのは幼稚園の時に経験した死の感覚で、それに近づくために宗教や他人の死生観を取り払う作業に必死に取り組んだ

 初めて経験した死のその時の感覚を求めた結果が今の死生観になっている。

なったというよりは感覚を取り戻したのだと思う

 死については以前詳述しているのでそちらを参照してほしい

wilhelog.hatenablog.jp

 19歳のときに経験した死は、死の意味を分かったから悲しくなったのではなく意味を付与したからであり、それは、日本の宗教、葬式という場やそこにいる人が作り出す空気が作り出した意味で、正しくも的確でもなければ自分の感覚とは一致しない

 私の場合は、幼稚園のときの死を何も感じないと感じたが、そうではない人もいるだろう

人の感覚は人それぞれ異なるのだからその感覚が違えば死生観が異なるのは当然であろう

 少し話が逸れるが、命に価値を見出さない人ならば自己肯定感など無意味に感じる

学校教育では、全ての命はかけがえのないもので価値があると言い聞かせて自己肯定感を高めようとしているが、生きるために他の生物を殺している。生き物を食べない主義の人でも知らず知らずのうちに殺している(微生物など)

全ての命は大切だと説いておきながらなぜ他の命を奪うのか理解できない

生きるために命を奪うから感謝をして頂きましょうのような言葉が不思議でならない

こういうところに欺瞞を感じてしまうから自己肯定感という言葉や、もっといえば道徳が苦手だ

他の生物の命を奪うから私は自分の命に価値があるとは思っていない

他の生物と同様に殺されるときは殺される、そういうものでしかないと思っている

 これは書くか迷ったが、今私には母方の祖父母とその兄弟や父方の祖母など関わりの深い親戚が複数まだ生きている(まだとか言っていいのか分からないけど)

全員歳は70を超えているし、私に比べたら先は長くない

そういう人達が死んだときに何を感じるだろうか

もちろんその人の死自体を望んではいないが、死の感覚には興味がわいてしまって複雑な感情になっている

最近、昨年感じた死の感覚が薄くなってきているような気がしている。

恐らく私の哲学のテーマは"死"になるだろうから、さまざまな距離の人の死を経験したときの感覚それが鍵になる

ジャンケレヴィッチも読んでいきたい

"死"を知ることへの欲求とこれから長く付き合うことになるだろう

 

wilhelog.hatenablog.jp

 

おまけの写真

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