月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

死を眺める

最近体調が良くなってきているのでまとめました。

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Nikon F2 Nikkor Ai 50mm f1.4 Velvia100


少し前まで平日のショッピングモールぐらいの人の量でも短時間ですごい疲れてしまって早く外に出たいってなっていたのに人が多い場所に行っても前のような疲れは来なくなった。単純に体力が戻ってなくて疲れたりはする。

 

電車で座って到着した時に立ち上がると足に力が入らなくて階段の昇り降りが厳しかったり、色んな場面で自律神経失調症の症状が出ていたのが無くなってきている。

 

交通事故から1年と3ヶ月程でここまで回復するとは思っていなかったし、周りの人達もここまで早く良くなるとは思っていなかったと思う。

同居している祖父が死んだという事故の状況から考えて5年から10年、もっと長くなるかもしれないと言われていた。

 

学校では、担任の先生や学生生活支援の職員の方、臨床心理士のカウンセラーに助けられながらなんとか高専5年間留年せず卒業することができた。

卒業後の今年は1年間大学編入版の浪人生のような形で編入試験を受け、なんとか志望校に合格することができた。

 

去年は自分の進路のことは考えることが出来ず、なんとなくで選んだ大学に全て不合格だった。

去年までになんとなくでも将来の方向性が定まっていればもう少しやる気も出たのかもしれないが、今まで生きる理由が分からず、交通事故後に自身を内観していくとそこには何も残らなかった。

 

約20年の間、自分自身に生きる理由がないことは察していたが、いざ内観を繰り返し本当に何も無いことを直視したときの喪失感は、一層希死念慮を高めるだけだった。

 

自身に関係する全ての行為が何によって肯定されるのかを考えていけば最終的に生きる理由に辿り着く。

生きる理由が無い若しくは分からない状態で何か物事を取り組むとしても、その行為は一時的な達成感を得るためだけのその場しのぎのものに過ぎない。

一時的な達成感こそが生きる理由だと思える人はそれでいいのだが、私はそう思うことができなかったし、初めからその視点ではなかったから生きる理由がないことは、そのまま全ての行為が無意味なものであることを意味する。

 

何のために頑張るのか。この問の行き着くところには何も無いのだから頑張ろうと思っても根本的に不可能だったのだ。

 

生きる理由がなければ自分という存在を裏付けるものがなくなってしまうのだから、自分の将来を考え、自分のために動くことが無意味なものに感じ死を望むことは当然のことだと思う。

だが今は違う。

何人もの人から支えられ、今はまだ死ななくていいかなと思えるようになり、これから自分はこのために生きたいと思える存在に気がついた。

それに気がついてからというものは、得体の知れぬ不安が消え去り睡眠導入剤を飲まずに寝ることができるようになったり、将来の目標を立てられるようになった。

 

去年の自分は死を望み、死に向かって進んでいたが、今は脇道に逸れて死を細目で眺めている。

 

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