日記、最近のこと
最近は頭があまり働かず、思考することが上手くできない
年度末ということもあって忙しい
締切があってやらないといけないことは何個もあるのにどれも先が見えず、少しずつやれば終わるから頑張ろうなどという前向きな気持ちにはなれない
焦りはするけれど、その感情を別のものに変換することができない
焦っているのに行動することができないから何も終わらない
友人からは余裕があるように見えているらしい
焦っているのが表に出ておらず伝わらない
内心穏やかではないのだが、元から顔に感情が出にくいタイプだから仕方がない
友人に焦っていることが伝わったところでどうしようもないけどね、親からも言われることがある。学校の先生にもキレ気味に焦らないの?と言われたこともあるから少しは顔に焦りを出したいと思ってそれから出した方が良さそうな時は焦っている表情を作るようにしている。
これも大変、無理やり顔を作らないといけないから
今日は歯医者に行った。これも終わりが見えないことの一つだ
明日は心療内科に行く。こちらも終わりが見えない
いつかは終わるだろうけど、一つだけ確実に言えることは、良い結果が待っていないということ
どこかのタイミングでインプラントにするし、インプラントにしたらメンテナンスも大変だし、そもそもインプラントを入れるための手術もしないといけない。
歯医者という空間が苦手だから行くのが嫌になるね。慣れてきたとはいえ麻酔は痛いし、器具の音は怖いしで疲れる
心療内科もいつ終わるか分からない。何年通うか分からないし、完治するということはまず有り得ない
忘れている時間はあるし、前ほど思い出して辛くなることはないけど、確かに感覚は残り続けている。この感覚は消えることの無いものだと確信している。できればその周囲の記憶ごと消し去りたいが現代の技術では不可能だと思う。早く任意の記憶を消す技術が開発されて欲しい。
悪用されるだろうけど、そんなこと自分には関係ないね。
最近眠りが浅くて夢を見る
内容はほとんど覚えていない
安楽死に関わる生命倫理の問題
2019年11月に京都在住の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が、医師二名に安楽死を依頼し殺害された事件はまだ記憶に新しい。
日本には、安楽死を認める法律がなく、安楽死を依頼され実行してしまえば嘱託殺人罪に問われることになる。この事件は、嘱託殺人という法に関する問題の他、主治医ではない医師二名が金銭を受領し、偽名で患者宅を訪問して殺害するという医療倫理上の問題もあるが、別の機会に論ずることにする。
この事件から現時点では「自己決定権」の及ぶ範囲が刑事司法領域において、承諾は違法性を阻却し得ないことが分かる。
私は、安楽死を合法化すべきと考えており、それには法改正が必須であるが、この手の生命倫理に関する話題は忌避され、安楽死事件が起きた直後は話題になるものの国民間での議論が活発とは言えない。
そこで本稿では、安楽死議論の重要性とそれに係る諸問題について検討する。
医療技術は、「長生きしたい」,「病気で苦しむ人を救いたい」このような願いから発展し、平均寿命は、1960(昭和35)年時、男65.32歳,女70.19歳であったのに対し、2015(平成27)年時、男80.75歳,女86.99歳にまで延びた。
生活環境の変化によるものもあるだろうが、医療技術の発展と不可分であることは言うまでもない。
しかし、医療技術の進歩と生命尊重という単に心臓だけが動いている状況を維持することだけを価値とする古い社会倫理によって患者の身体に負担を与えながら延命処置を施す事態が発生した。
近年、「尊厳死」,「インフォームドコンセント」という言葉を聞く機会が増えてきた。尊厳死とは、患者が自らの意思で延命処置を行うだけの治療をあえて受けずに人としての尊厳を保ったまま死を迎えることである。
一方、インフォームドコンセントとは、医師が治療や臨床試験・治験の内容について説明し、対象者が十分理解した上で、対象者が自らの自由意志に基づいて医療従事者と方針において同意または拒否の意思を示し合意することであり、患者の自己決定権を保障するシステムあるいは一連のプロセスである。
尊厳死を選ぶことはインフォームドコンセントの一つとされている。尊厳死は、「消極的安楽死」に分類され、人工呼吸器その他の延命治療のための措置を中止することであり、必要なプロセス(インフォームドコンセント含む)を経た上で延命治療中止を行うことは、倫理的に正当とされ現時点で司法が介入してきた事例はない。
薬剤を投与するなどの方法は「積極的安楽死」に分類され、積極的安楽死は、自発的安楽死,非自発的安楽死,反自発的安楽死に細分化される。
前述した嘱託殺人事件は、女性患者のものとみられるブログやTwitterの投稿から、進行性の難病に侵され自由が利かなくなる体や生活を悲観し、安楽死を求めていたことが分かっているため、意思能力を備えた成人が自らの意思で死を望んでいる場合である自発的安楽死に該当する。
尊厳死と自発的安楽死どちらも自らの自由意志に基づいて自己決定権を行使した結果であるが、患者の意思を尊重して薬剤を投与した医師は嘱託殺人罪に問われてしまう。
両者の違いを挙げるならば、尊厳死は命から手を引き、安楽死は命に手を加える、というものだろう。
前述した古い社会倫理である生命尊重という価値観のもと法律が作られたことで命に手を加えることは悪とされているが、ここで、生命尊重という思想は善いものなのかという疑問が生じる。長らく議論されてこなかったこの問いについて議論することは、安楽死議論に直結することであり、高度な現代医療を享受できる今こそやるべきである。
私は、医療技術によって延命してほしいと考える人が延命できることは喜ばしいことであると思うが、死にたい、これ以上生きていたくないと考える人が死を選べるようにすべきとも思う。
生命尊重は、自らの生を肯定することが前提にあり、自らの生を肯定する人・肯定することが可能な人達が自らを正当化するために生命尊重を善いものとしたが、反対に、死にたいと考える人の目には悪としか映らない。
何をしても生きる喜びを感じられず、生を肯定できなかった人が死ぬその瞬間だけ生を肯定し、生きる喜びを感じるならば、生きることと同様に死ぬことも肯定されなければならない。
参考文献
難病情報センター 筋萎縮性側索硬化症(ALS)(指定難病2): https://www.nanbyou.or.jp/
時事通信 2020年07月24日 患者女性「安楽死許して」ブログなどに赤裸々な内面―医師嘱託殺人
MSDマニュアル インフォームドコンセントhttps://www.msdmanuals.com/ja-jp/
日本医事新報社https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=10406
日本臨床倫理学会http://square.umin.ac.jp/j-ethics/topic_2_5_5.htm
樋口範雄: 終末期医療と法 医療と社会 2015
植村和正 井口昭久:「安楽死」と「尊厳死」-法律的考察- 生命倫理 1999
廣瀬政雄: 選択的治療停止と終末期医療 鳴門教育大学研究紀要 第24巻 2009
死についての考察 「死とは何か」
ワードプレスに移行しました。移行先の記事はこちらです。
始まりの死の哲学-Origins of My Death Philosophytukikanagi.wordpress.com
死とはなにかと聞かれた時、すぐに死とはこういうことだと説明できる人はあまりいないだろう。
心臓が止まってしまえば、数分後には身体の全ての機能が停止し、心臓が動いている時のような意思疎通ができない状態になる。
このように心臓が止まっている状態のことを多くの人が死と表しているが、自分の手や耳で他人の死を確認する機会は医療従事者でなければほとんどない。
しかし、なぜ自らの手や耳で心臓が拍動を停止したことを確認していないにも拘わらずその人が死んだと信じてしまうのだろうか。
また、死んだことをどのように認識し何を死として受け止めているのだろうか。
そこで、伝聞・情報によって構成される世界及び、目で見え、手で触れられる具体的経験世界の人物をどのように認識しているのかを確認することで死とは何かに一つの解釈を提示したい。
伝聞・情報による世界であるテレビの向こう側にいる芸能人が本当に存在しているのかは実際に会うまで分からないが、我々は存在していることを確信している。
根拠は後述するが、芸能人をテレビで見たときその人の存在は、テレビから得た情報を基に自分の中に像として形作られていく。
自分の中に形作られたその像は、実物のその人とは通信の関係で時間がずれ、数秒前、録画ならば何日、何年も前の姿をしているが、その像をその人だとしている。
疑う気になればCGではないかなど疑うことはできるが、この伝聞・情報の世界は経験可能な範囲であるからCGだと疑うことはあまり現実的ではない。
このように自分の中に像を作り、それをその人だと錯覚している。年に何度か誰もが知る国民的有名人が亡くなったというニュースを耳にするが、その人の心臓が止まっている事を現場にいない人が確認することは不可能であり、テレビや新聞などのメディアを通じ、訃報という形でその人が死んだという情報を確認する。
そして、その情報を確認して初めてその人が死という状態にあると自分の中で位置づけられる。
言い方を変えると、訃報さえ知らなければその人は生きている人として認識され続ける。
実際の事象と時間のずれが生じていることになるから実物を見ているのではなく、自分の中に作られた像を見ていると言える。
では、具体的経験世界の人物はどのように認識しているのだろうか。目の前に実物があるから伝聞・情報による世界の人物とは異なると思うかもしれないが本質的には同じである。
具体的経験世界の人物と意思疎通をする時は、身体ではなく、身体を通じてその人の本体と意思疎通をしている。
ここでは「本体」を身体とは別にあるその人の存在自体を表す言葉として使用する。
目の前にある身体から発せられた声などの情報からその人の本体を認識し、それに対して身体を使って声や動きという形で反応をする。
身体は、身体の使用者の本体の存在を認識しやすくするための道具であり、その本体とは身体を介さずに視ることはできない。
自分の本体を相手に認識させるために身体を使って声を出したり動いたりするが、完璧に自分の本体を伝えることはできず、伝わったかどうか確認することも不可能である。
相手は、声や動作から感じ取った情報から、本体と思われるものを自分の中に形成し、それをその人として考えている。
具体的経験世界の人物が死んだときはどのように認識しているだろうか。目の前に実物があったとしても常にその人の心臓に手を当てているわけではない。
例えば病室で心電図モニタを見て死を確認したとする。機械を信じていたらモニタの表示を見て死だと認識するが、機械を信用していない場合は実際に触って心臓が動いていないことを確認した時に死だと認識する。
見た目では死んでいるかどうか分からない。何らかの方法で心臓が停止していることを自身で確認するか、誰かが死んだと言った言葉を信じたときに自分の中に作ったその人は死ぬ。
自分以外の人物は、自分から見て具体的経験世界と伝聞・情報によって構成される世界を行き来している。
具体的経験世界での死と、伝聞・情報の世界での死では、物理的距離と目視できるかどうかの差があるだけで死んだ時間と、他人が死を認識し、自分の中に作り出したその人を死だと位置づける時とでずれが生じていることは同じである。
さらに、具体的経験世界の人物も火葬されることにより実物を確認することはできなくなる。
死んだ人と遠くに居て長い期間会っていない生死不明の友人や知人とでは、自分の中でその人のことを死んだ人として扱うかどうかの違いしかなく、実際に心臓が止まっているかは関係がない。
これらのことから、死とはその人の本体を認識するための道具を失い、本体を認識し難くなっている状態でしかなく、同じく本体を認識し難い遠くに居る人物とでは違いはない。
訃報を耳にした時に何を考えるか
例えば、もうその人に会えない、話すことができない。有名人なら、テレビの中で動いている姿を見ることができないといったことだと思います。過去に放送したドラマの録画やDVDで見ることはできますが、新作は見られない。動画でしか見たことがない人が死んでも新作が見られないだけで、その人の存在を知る動画という方法は何も変化していないが、死んだ人として見てしまうのは、自分の中に存在していたその人のことを死んだと思い、死んだ人として扱うからだと思います。
有名人でなくとも、知人などの葬式に参列し故人の顔を拝見する機会はありますが、本当にその人本人だと確証を持てたことが私はありません。
視ても相手から視られることはないし、話しかけても返事はなく、触っても硬いだけで、人の顔がついているよく分からない物体としか思えません。しかし、その物体のことを周りの人達は数日前まで動いていた人だと言い張り、悲しみ、葬式をやり、火葬して墓に入れます。
その人本人だと確証を持てていないのに周りの人が悲しみ、葬式や火葬などやるから自分も悲しくなっているのではないか、本当は悲しいと思っていないけど悲しいと考える人達の中にいるからそう感じてしまうのではないかと思うことがあります。
心臓が動かなくなったからといってその人は本当に死んでいると言えるのでしょうか
身体によってその人の本体を認識しやすくなっているから、その身体の心臓が止まり、火葬された状態というのは、その人の本体を認識しにくくなっただけであるが、その状態のことを死と表しているならそうかもしれませんが、死が何を指しているのか曖昧なまま使われていてよく分かりませんでした。
冷ややかなまなざし
近代科学の発展によって、物を詳細に分析することが可能になった。
例えば、道に落ちている石を分析しようとすれば、目で視たときはただの石であるが、別の手段を用いて視るとどうなるだろうか。
顕微鏡で拡大して視れば、一つの石が小さな何種類もの結晶の集合体であることが分かるだろう。
そして、化学薬品をその石に一滴垂らしてみればガスが出るなどの反応が起こり、石に含まれている物質が何であるか確認することができる。
このように視ることで無限に対象を分析することができるようになった。視ることが特化されることで視る対象は他者になり物体化する。
物体化することで分析可能なものであり支配せずにはおかない対象になる。これを中村雄二郎氏は「冷ややかな眼差し」と呼んだ。
人間関係においても同じことがいえる。
初めて会う人に対峙したときに人間に限らず動物は、この人はどのような性格で、私と相性が良いのかなどと相手の内面を探ろうとする。
これも対象を物体化し分析、支配する行為であり、相互にこの視線を送り合っている。
相手の視線や動作から完全ではないとはいえ相手の内面を探ることができるが、あまり大袈裟に探ろうと視線を送ると相手からしたら恐怖を感じるだろう。
見ること、知ることが他の人間を支配する権力であり、見るものと見られるものとの冷ややかな分裂をもたらした
【今週のお題】「鬼」架空の存在を幼少期に怖がらせる目的で使ってはいけない
今週のお題「鬼」
鬼と聞くと最近流行りの鬼滅の刃が思い浮かぶ
自分もジャンプ本誌とアニメを見たけど、ストーリーは分かりやすく、複雑な設定が苦手な自分でも楽しめた。まだ映画は見に行けていないけどいつか見たいと思っている。
さて、タイトルの「架空の存在を幼少期に怖がらせる目的で使ってはいけない」について話していこうと思う
来年小学二年になる従弟がいるのだが、まだ小学校に入る前ぐらいにその子の母が、静かにさせるために「言うこと聞かない子のところには鬼が来る」と言っていたのを思い出した。
それを聞いた従弟は怖がり、静かになった。大まかに結果だけ見ると、「静かにしなさいと注意した母の言うことを聞いて静かになった」になるが、従弟に残るものは、ただの恐怖だ。この時はまだ恐怖だけだが、何年も経ってから現れるものがある。
従弟に現れるかはまだ分からないが、私には実際に現れたものがある。
騙されたという感覚
本当は鬼というものが存在しないと知ったらどう思うだろうか
正当な理由を説明されず、鬼という架空の存在を使って恐怖を与えられ黙らされたという記憶は、幼いとはいえ長くわだかまりとして残ると思う。
その結果、私みたいに何かを信じるということが苦手になってしまうのではないかと心配している。
幼いから言っても意味が分からないだろうと思うのではなく、何を言ったかは覚えているから、架空の存在を利用して躾けることはやめてほしいと思う。