月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

死についての考察 「死とは何か」

ワードプレスに移行しました。移行先の記事はこちらです。

始まりの死の哲学-Origins of My Death Philosophytukikanagi.wordpress.com

 

 死とはなにかと聞かれた時、すぐに死とはこういうことだと説明できる人はあまりいないだろう。

心臓が止まってしまえば、数分後には身体の全ての機能が停止し、心臓が動いている時のような意思疎通ができない状態になる。

このように心臓が止まっている状態のことを多くの人が死と表しているが、自分の手や耳で他人の死を確認する機会は医療従事者でなければほとんどない。

しかし、なぜ自らの手や耳で心臓が拍動を停止したことを確認していないにも拘わらずその人が死んだと信じてしまうのだろうか。

また、死んだことをどのように認識し何を死として受け止めているのだろうか。

そこで、伝聞・情報によって構成される世界及び、目で見え、手で触れられる具体的経験世界の人物をどのように認識しているのかを確認することで死とは何かに一つの解釈を提示したい。


伝聞・情報による世界であるテレビの向こう側にいる芸能人が本当に存在しているのかは実際に会うまで分からないが、我々は存在していることを確信している。

根拠は後述するが、芸能人をテレビで見たときその人の存在は、テレビから得た情報を基に自分の中に像として形作られていく。

自分の中に形作られたその像は、実物のその人とは通信の関係で時間がずれ、数秒前、録画ならば何日、何年も前の姿をしているが、その像をその人だとしている。

疑う気になればCGではないかなど疑うことはできるが、この伝聞・情報の世界は経験可能な範囲であるからCGだと疑うことはあまり現実的ではない。

このように自分の中に像を作り、それをその人だと錯覚している。年に何度か誰もが知る国民的有名人が亡くなったというニュースを耳にするが、その人の心臓が止まっている事を現場にいない人が確認することは不可能であり、テレビや新聞などのメディアを通じ、訃報という形でその人が死んだという情報を確認する。

そして、その情報を確認して初めてその人が死という状態にあると自分の中で位置づけられる。

言い方を変えると、訃報さえ知らなければその人は生きている人として認識され続ける。

実際の事象と時間のずれが生じていることになるから実物を見ているのではなく、自分の中に作られた像を見ていると言える。

では、具体的経験世界の人物はどのように認識しているのだろうか。目の前に実物があるから伝聞・情報による世界の人物とは異なると思うかもしれないが本質的には同じである。

具体的経験世界の人物と意思疎通をする時は、身体ではなく、身体を通じてその人の本体と意思疎通をしている。

ここでは「本体」を身体とは別にあるその人の存在自体を表す言葉として使用する。

目の前にある身体から発せられた声などの情報からその人の本体を認識し、それに対して身体を使って声や動きという形で反応をする。

身体は、身体の使用者の本体の存在を認識しやすくするための道具であり、その本体とは身体を介さずに視ることはできない。

自分の本体を相手に認識させるために身体を使って声を出したり動いたりするが、完璧に自分の本体を伝えることはできず、伝わったかどうか確認することも不可能である。

相手は、声や動作から感じ取った情報から、本体と思われるものを自分の中に形成し、それをその人として考えている。

具体的経験世界の人物が死んだときはどのように認識しているだろうか。目の前に実物があったとしても常にその人の心臓に手を当てているわけではない。

例えば病室で心電図モニタを見て死を確認したとする。機械を信じていたらモニタの表示を見て死だと認識するが、機械を信用していない場合は実際に触って心臓が動いていないことを確認した時に死だと認識する。

見た目では死んでいるかどうか分からない。何らかの方法で心臓が停止していることを自身で確認するか、誰かが死んだと言った言葉を信じたときに自分の中に作ったその人は死ぬ。
自分以外の人物は、自分から見て具体的経験世界と伝聞・情報によって構成される世界を行き来している。

具体的経験世界での死と、伝聞・情報の世界での死では、物理的距離と目視できるかどうかの差があるだけで死んだ時間と、他人が死を認識し、自分の中に作り出したその人を死だと位置づける時とでずれが生じていることは同じである。

さらに、具体的経験世界の人物も火葬されることにより実物を確認することはできなくなる。

死んだ人と遠くに居て長い期間会っていない生死不明の友人や知人とでは、自分の中でその人のことを死んだ人として扱うかどうかの違いしかなく、実際に心臓が止まっているかは関係がない。

これらのことから、死とはその人の本体を認識するための道具を失い、本体を認識し難くなっている状態でしかなく、同じく本体を認識し難い遠くに居る人物とでは違いはない。
 
 訃報を耳にした時に何を考えるか
例えば、もうその人に会えない、話すことができない。有名人なら、テレビの中で動いている姿を見ることができないといったことだと思います。過去に放送したドラマの録画やDVDで見ることはできますが、新作は見られない。動画でしか見たことがない人が死んでも新作が見られないだけで、その人の存在を知る動画という方法は何も変化していないが、死んだ人として見てしまうのは、自分の中に存在していたその人のことを死んだと思い、死んだ人として扱うからだと思います。
 
有名人でなくとも、知人などの葬式に参列し故人の顔を拝見する機会はありますが、本当にその人本人だと確証を持てたことが私はありません。
 
視ても相手から視られることはないし、話しかけても返事はなく、触っても硬いだけで、人の顔がついているよく分からない物体としか思えません。しかし、その物体のことを周りの人達は数日前まで動いていた人だと言い張り、悲しみ、葬式をやり、火葬して墓に入れます。
 
その人本人だと確証を持てていないのに周りの人が悲しみ、葬式や火葬などやるから自分も悲しくなっているのではないか、本当は悲しいと思っていないけど悲しいと考える人達の中にいるからそう感じてしまうのではないかと思うことがあります。
 
心臓が動かなくなったからといってその人は本当に死んでいると言えるのでしょうか
身体によってその人の本体を認識しやすくなっているから、その身体の心臓が止まり、火葬された状態というのは、その人の本体を認識しにくくなっただけであるが、その状態のことを死と表しているならそうかもしれませんが、死が何を指しているのか曖昧なまま使われていてよく分かりませんでした。
 

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