月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

コンピューターは心を持つか

今回はこの疑問にも触れながら人間と同じ''心''をコンピューターという機械に搭載することはできるのかを考えていきます

 

今日において、我々が何かしらの事象ないしは、事物といった諸対象を認識する際には、どのように遂行されるのだろうか。当たり前のことだが、我々人間は、日常において目で見たものをそこにそのまま存在すると信じこみ疑うことをしない。一例をあげるならば、目の前にあるリンゴは主観的に知覚像として映り、客観的な事物としてそこにあると確信可能であろう。こうした当たり前としての認識の様式は、どのように誕生したのだろうか。この問いに答えることが、「コンピューターは心をもつか」という問いにおいても答えることを明らかにする。

19世紀に科学的な手法である純粋数学という事実学の台頭により、キリスト教の神による世界の創造という物語は、崩れつつあった。

そこでデカルトは、真理とは何かを考えるにあたり、信頼していた自身の感覚からすべてのものを疑った。そして、すべてのものを疑ったあげく、疑うという思考を持った自己の存在は、私が疑うことをしていることから、私という存在は疑う余地もなくそこに存在していると気づき、「我思う、故に我あり」という真理にたどり着いた。思考をしているとき、精神の存在は確実に存在しているといえるが、考えることをしていなければ、身体が存在していたとしても、精神が存在していることを確認することは不可能である。

次に、デカルトは数学者として、世界の総体を純粋数学で説明可能であるとし、検証を行ったことは周知であろう。このあらゆる存在する事物対象(世界という総体)を数学によって法則化するという世界観は、キリスト教世界に代わるものであった。

しかしながら、フッサールによればこの世界観の登場は、今日の我々の思考それ自体をも規定すると警告している。全てのものを法則化できるという実証科学の考え、つまりは、その思考様式は、実証不可能な概念をあたかも実証できるという暗黙の前提を生んだ。実証主義の精神が人文科学や社会科学といった領域に適用されたとき認識の対立や、学の乱立がおこり、今日において相対主義が蔓延したのは、歴史的事実である。

話を戻し、この世界という総体を実証しようとする思考様式を検討したい。まさにこの思考様式を暗黙の裡に自明視していることが故に、我々はある希望的観測を頂く。すなわち、「コンピューターは心をもつか」という問いである。

そもそも心は数値化することができないにもかかわらず、できるかもしれないと推論が働いてしまった。コンピューターは、与えられた数値からあらかじめ組み込まれているプログラムによって解を出すという計算機の枠を超え出ることはなく、意味の認知ができない。ここでいう意味の認知とは、「岡山と広島に行った」という言葉を理解できるかである。コンピューターは、岡山は県か人物、どちらなのかという判定はできない。人間ならば、誰とどのような場面で話しているかといった言葉以外の状況から推測して県か人物か判定できる。他にも、近年若者の間で使われている「エモい」や「やばい」といった、話の流れやその場の雰囲気によって意味が変わる言葉の意味を判定することができない。

すなわち、人間だけに備わる心というものは、情動や過去の経験から意味を類推したり、判別したりする機能を有しているといえる。そして、前述したように心は、純粋数学の対象として認識することができない。よって、人間が認識できる範囲の技術を駆使して作られるコンピューターに心という機能をもたせることは不可能である。

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