月花凪(TukikaNagi)

冷蔵庫の中を見て献立を立てる主婦の思考

死とはなにかを考える

タイトルの通り死とはなにかと聞かれた時、すぐに死とはこういうことだと説明できる人はあまりいないのではないでしょうか。

 

心臓が止まっている状態のことを多くの人が死と表していますが、自分の手や耳で他人の死を確認する機会は医療従事者でなければほとんどないと思います。心臓が止まってしまえば、数分後には身体の全ての機能が停止し、心臓が動いている時のような意思疎通ができない状態になります。

年に何度か誰もが知る国民的有名人が亡くなりニュースになりますが、その人の心臓が止まっている事を自分で確認することはまずできないでしょう

テレビや新聞などのメディアを通じ、訃報という形でその人が死んだことを認識します。そして、認識して初めて自分の中のその人は死にます。言い方を変えると、訃報さえ知らなければその人は生き続けています。

そもそも、テレビに出ている有名人のことをテレビの画面でしか知らず、本当に存在しているのかも分からないですよね。

本当に存在しているかどうかも分からない人が死にましたと言われてもいまいちピンとこないです

テレビを通して自分の中にその人の存在が形作られていき、訃報を聞き、その人が死んだと思うことによってその人は死んでいる扱いになります。訃報を聞かなければ、死んだと思わないので生きている人として自分の中に存在し続けます。

よく分からないですね。

不幸の報せを耳にした時に何を考えますか
例えば、もうその人に会えない、話すことができない。有名人なら、テレビの中で動いている姿を見ることができないといったことだと思います。過去に放送したドラマの録画やDVDで見ることはできますが、新作は見られないですね。動画でしか見たことがない人が死んでも新作が見られないだけで、その人の存在を知る動画という方法は何も変化していないです。にもかかわらず、死んだ人として見てしまうのは、自分の中に存在していたその人のことを死んだと思い、死んだ人として扱うからだと思います。

有名人でなくとも、知人などの葬式に参列し故人の顔を拝見する機会はありますが、本当にその人本人だと確証を持てたことが私はありません。

視ても相手から視られることはないし、話しかけても返事はなく、触っても硬いだけで、人の顔がついているよく分からない物体としか思えません。しかし、その物体のことを周りの人達は数日前まで動いていた人だと言い張り、悲しみ、葬式をやり、火葬して墓に入れます。

その人本人だと確証を持てていないのに周りの人が悲しみ、葬式や火葬などやるから自分も悲しくなっているのではないか、本当は悲しいと思っていないけど、悲しいと考える人達の中にいるからそう感じてしまうのではないかと思うことがあります。

人と意思疎通をする時に何と意思疎通をしているのか

身体ではなく、身体を通じてその人の本体と意思疎通をしています。

目の前にある身体から発せられた声などの情報からその人の本体の存在を認識し、それに対して身体を使って声や動きという形で反応をします。身体は、身体の使用者の本体の存在を認識しやすくするための道具だと言えます。そして、その本体とはそれ自体を何も介さずに視ることはできません。自分の本体を相手に認識させるために身体を使って声を出したり動いたりしますが、完璧に自分の本体を伝えることはできませんし、伝わったかどうか確認することもできません。相手は、声や動作から感じ取った情報から、本体と思われるものを自分の中に形成し、それをその人として考えています。

心臓が動かなくなったからといってその人は本当に死んでいると言えるのでしょうか

身体によってその人の本体を認識しやすくなっているから、その身体の心臓が止まり、火葬された状態というのは、その人の本体を認識しにくくなっただけと言えますね。

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